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2018年4月に作成された記事

シリーズ 松庄の歴史

写真は母がまだ魚の棚に嫁いでくる前のもの。

昭和53年に藤江の公設卸売市場が開設するまでは、セリは魚の棚から南に下がった海辺の辺り(今の分場)で行われていた。

当時、魚の棚の魚屋は朝は卸、その後は小売りという二枚看板の店が多かった。

親父は深夜3時頃から店を開け夕方の6時頃まで、母は早朝5時頃から働いていたように思う。

休日といえば写真の頃は正月とお盆の二日のみ、その後少しずつ増え、おいらが小学校の頃には今の週1の休みが義務づけられるようになったそうだ。

この頃は店の奥と2階が住まい、 祖父、祖母、住みこみの従業員さんもいて、大所帯での生活だった。

みなの食事を作るのは母、 80歳を超えた母は今でも料理を作るのが早い、たぶんこの頃の経験からだと思う。

魚の棚は「金の成る木」と呼ばれた一方で「地獄の八丁目」とも呼ばれたそうだ。

そんな時代を経て、父と母が魚の棚から離れたところに念願の住まいを建てたのは、おいらが中2の時。

職場と住まいが別々になり生活も激変した。

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移り行く松庄の従業員

思えば松庄も随分と変わったものだ。

↓写真上は、当時サラリーマンのおいらが家業を継ぐ直前のもの。

真ん中が親父で、この2年後に他界。

当時の松庄は男社会、従業員さんも殆ど正社員、威勢の良さがウリ?で売り方も強引?くわえタバコもちろんOK!

それでも売れまくったというなんとも良い時代。

ただ、今もこの頃と同じだったら?

結果は歴然、だから過去を語っても意味がない。

写真下は現在。

従業員さんのほとんどが女性パートさん、親切で丁寧なのがウリ、とても買いやすくなった。

これはおいらがD社時代に得たものかも。

ただ、かつてのような賑わいはなく、厳しい時代に直面している。

大事なのはこの先、

さて、どう戦う?

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